「頑張らなくても頑張れること」を見つけよう

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突然だけれど、ぼくは大学時代、和太鼓部に所属していた。 特にコンクールとかに出るわけではなく、年に2回ほどある公演に向けて、ひたすら練習をするような集団だった。

今思い返すと、それはそれはよく練習していた。部活なので、運営ももちろん自分たちでやるから、凄まじい頻度と長さでミーティングをやっていた。ちょうど今現役の部員たちは、自主練期間中で、この猛暑の中も恐らく練習に励んでいるのだと思う。

ただ、傍から見たら「頑張っている」ように見える、練習やミーティングも、やっている当初は自分が「頑張っている」とはあまり認識していなかった。

仕事をするようになって1年と数ヶ月。友人知人と仕事の話をしていて、「仕事は頑張るものだ」という認識が強いなと感じた。そしてそこにぼくは強く違和感を持った。「頑張ること」への違和感。

もう少し考えてみたかったので、今日はそのことについて書いてみようと思う。

ぼくは別に仕事を頑張ってないと思う

これは言葉のイメージの問題だが、「頑張っている」には何となく苦労のニュアンスが含まれている。大変なことを我慢しながら、苦労しながらやっている、という意味合いが含まれている気がしてしまう。

でも少なくとも今、ぼくは働いていて何かを強く我慢しながらやっているわけではない。もちろん疲れているときはしんどいし、つまらない仕事もなくはないけれど、「頑張っている」わけではないと思う。どちらかと言えば、楽しんでいるし、遊んでいるといったほうがイメージが近い。

じゃあぼくと同じ仕事を他の人がやったらどう思うか、と考え出すと多分しんどいのだと思う。別に自分の仕事が特別だとかではなく、向き不向きがある。

言葉の定義として正しいのかは分からないけれど、「頑張らなくても頑張れること」がそれぞれにあって、それを仕事にしているからぼくは自分が「頑張っていない」と思っているのだろう。

頑張らなくても頑張れることを大切にしたい

例えば、毎日スマホゲームで遊んでいる人がいる。これはぼくにはできない。正直すぐ飽きてしまうし、あんまり面白さが分からない。サッカーや野球の結果を毎日追うのも同じ。ぼくも嫌いじゃないのだけれど、どうしても毎日結果を見て一喜一憂はできない。

でもぼくにとって、毎日ブログを書くことに関しては、そんなに頑張らなくても毎日できる。スマホゲームは出来ないけれど、Switchでほとんど毎日ゲームはしてるし、ゲーム実況動画も毎日のように見ている。

何が言いたいかと言うと、「自分が頑張らないとできないこと」と「他の人が頑張らないとできないこと」は多分違うのだ。ぼくにとっては「頑張らないとできないこと」でも、他の人からしたら息をするのと同じようにできてしまう。

これは結構大きな発見で、ということは「みんなは頑張らないとできないこと」で、「自分は大して苦労もせずできること」を探せば、特に頑張らなくても仕事はできるはずだ。

ここで言う「頑張らない」は「努力しない」とも少し違う。本人は頑張っているつもりがない、が一番正確かもしれない。

何事にも自分のペースがあるし、向き不向きがある。自分が頑張らなくていいギリギリのペースで、自分が頑張らなくても頑張れるものを仕事にしていけたら、幸せなんじゃないだろうか。

最後に

本日はここまで。最後までお付き合いいただきありがとうございました。

これまで、過度にポエティックになるのを恐れて「ですます調」で書いていたのだけれど、何となく気持ち悪さを感じていたので変えてみた。やっぱりポエムっぽさが増すなあ。ここも今後の研究ポイントとします。

あと部活については、簡単に書きましたが、これだけで判断されるのは怖いなという内容です。いつか補足記事が書けたらいいな。それでは。